「ドジっ子」「不思議ちゃん」という言葉、今見るとだいぶ雑だ。でも、その雑さに救われていた人もいたのではないか。そんな平成っぽい空気をめぐる投稿がXで一気に広がり、共感と批判が入り交じる状態になっている。
話題になっているのは、瀬名さんが2026年4月22日に投稿した「発達障害のことをドジっ子とか不思議ちゃんって呼んでた平成時代、本当に良かった」という内容のポストだ。スクショ上では853万件超の表示、15万いいねを突破しており、ただの懐古ネタでは済まない広がり方をしている。いや、刺さりすぎだろ。
話題の起点になったXポスト
この投稿に対しては、「KY」「天然」「ドジっ子」「不思議ちゃん、全部言われた」というような反応が集まり、平成の教室や職場にあった“なんとなく許される枠”を思い出す人が続出した。たしかに、今なら診断名や特性の話になりそうな振る舞いが、昔はふわっとキャラ扱いで流されていた場面はあった。良くも悪くも、名前を付けないことで日常が回っていた時代だ。
ただ、ここで「昔は優しかった」で終わらないのがこの話の難しいところ。批判側からは、「不思議ちゃん扱いされる側の悲しさを知らないだけ」「ドジっ子で済んだのはかなり恵まれたケース」「重い人は普通にいじめや排除の対象だった」という声も出ている。これは分かる。呼び名が柔らかいからといって、本人の困りごとまで柔らかくなるわけではない。
むしろ平成の怖さは、やさしい雑さと残酷な放置が同居していたところだと思う。「あの子は天然だから」で済ませてもらえる人もいれば、「努力不足」「空気読めない」「変なやつ」として削られていく人もいた。診断名がないぶん、本人も周囲も何に困っているのか分からないまま、性格の問題として処理される。これは普通にしんどい。
一方で、令和の生きづらさもある。発達障害やASD、ADHDという言葉が広がったことで、自分を理解しやすくなった人は確実にいる。だが同時に、ネットでは誰かの失敗をすぐ「発達では」とラベル貼りする雑さも出てきた。平成は名前がなさすぎた。令和は名前が付きすぎる。どっちも別方向にキツい。
だからこのポストが15万いいねまで伸びたのは、単に「昔はよかった」という話ではなく、今の言葉の精密さにちょっと疲れている人が多いからだと思う。何でも診断名や属性に回収されると、助かる場面もあるけど、逃げ場のない感じも出る。昔の「不思議ちゃん」は雑だった。でも、その雑さが人間関係のクッションになっていた記憶もある。ここがややこしい。
とはいえ、懐かしさだけで平成を美化するのも危ない。名前が付くことで支援につながった人、ようやく自分を責めなくてよくなった人もいる。昔の方が良かった人もいれば、今の方が生きやすい人もいる。この話はたぶん、発達障害そのものというより、「人のズレを社会がどう受け止めるか」の話なんだよな。
平成の雑さに戻りたいわけではない。でも、令和のラベル貼りだけで人を分かった気になるのも違う。必要なのは診断名かあだ名かの二択ではなく、「困っている人を雑に笑わず、でも人間関係までカチカチにしない」くらいの温度なのかもしれない。平成の“ドジっ子”がバズるあたり、みんな今の言葉の強さに少しだけ疲れている。

